島津 歳久公 考
三連休のなか日、来園のお客様の多い北薩広域公園ですが
今年も、今日、この季節が、やってきました
島津歳久公をまつる、大石神社で、金吾様踊りが、盛大に行われている事と、思います。
今年は、55年ぶりに、地割舞が復活するとの事で、素朴な里の祭を楽しめます
領民に慕われた歳久公を偲び、祭が今に伝わるとは、すごい事でしょう
さて、この時期になると、毎年、島津 修久さんの書かれた、島津 歳久の自害、の
本を読み返します
日置島津家の初代、島津歳久公は、当時、英明にして仁徳高き武将と敬われた、
忠良(日新公)を祖父に、島津家中興の祖と讃えられた薩摩国守護職、十五代島津貴久公
三男として、生まれ、長兄に十六代を継いだ義久、次兄に十七代を継いだ義弘、
異母弟に四男家久があります。・・・(中略)・・・
祖父日新公は、四人の孫を称して、
「義久は三州の総大将としての材徳自ら備わり、義弘は雄武英略をもって傑出し、
歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」
と称えております。と書かれています。(ほぼ原文のまま)
その歳久公が、宮之城に入城したのは、44歳の時、
その2年後に本能寺の変が起きてます。
金吾(左衛門督)という官位を受けたのは、28歳のようです。
詳しくは去年のブログ、アーカイブより、9/3 秀吉暗殺計画 からつながってきますが、
なにしろ、話はひたすら長くなるので、出来れば、去年を見てほしい所ですが、
『「天下人」太閤秀吉に対して、徹底的に且つ頑強に恭順を拒んだ武将は、
全国でもこの島津歳久だけであった、ともいわれております』(原文のまま)
と、あります。このあたりが、人気なのでしょう。
また、秀吉の道は今もなお残っていて、薩摩川内市の太平橋のたもと、泰平寺から、
平佐城を出て、倉野、荒瀬、山崎と、つながるのです。
川には、右岸と左岸があるので、諸説あるらしいのですが、泰平寺から平佐までが
すでに、川を渡っているので、二渡にも逸話が残っているらしいのですが、
たぶん、このルートでしょう。
駕籠に矢を射た本田四郎左衛門の話や、秀吉がみすぼらしい駕籠に乗っていたとか、
一兵卒の格好で歩いていたとか、逸話が残っています。
朝鮮出兵を拒んだ事が切腹につながる、大きな理由だったとか、
竜ヶ水での自害が、安産の神様にまつられるくだりや、
弟、家久が謎の死をとげる所や、持明院様の名から、伊集院幸侃の名前まで出てくる、
この時代、やがて、流れは、あの敵中突破の、関ヶ原へと向かっていきます。
これはもう、完全に大河です
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